コラム

お客様の声に支えられ無添加を貫き通した50年【シャボン玉石けん代表取締役社長 森田隼人×同専務取締役 髙橋道夫】
2024/08/28
Natural & Simple life

石けんを学術的に研究し
地球環境に貢献する技術力を

森田隼人×髙橋道夫
シャボン玉石けん株式会社森田隼人×同専務取締役髙橋道夫
代表取締役社長 森田隼人:1976年、福岡県生まれ。専修大学経営学部経営学科卒業。2000年シャボン玉石けん入社。取締役副社長を経て、2007年より代表取締役社長。無添加石けんを通じ環境問題啓発の講演活動も行う。
専務取締役 髙橋道夫:1956年、福岡県生まれ。西日本工業大学工学部電気工学科卒業。1978年シャボン玉本舗(現:シャボン玉石けん株式会社)入社。2002年より専務取締役就任。

-森田

当社は1974年に無添加石けんに全面切り替えし、今年で50周年。無添加石けんの輪が広がり、お客様のニーズに応えるべく、福岡県若松本社工場の拡張を決定し、本社機能の一部を同じ北九州市内の複合商業施設内に移転しました。専務は無添加切り替えの4年後、新卒第一号として入社し、1991年までの赤字時代を支え、社歴最長者です。先代の父、光徳の無添加を貫き通すゆるぎない意志と姿勢を現場で直に見聞きし、それを後進らに確実につないだ50年の歴史は、その一つの証左だといえますね。

-髙橋

害虫駆除のため田畑から大量の農薬が流れ込んだ川面には、おびただしい魚の死がいが浮き、河川は合成洗剤の影響で泡だらけ……、白い粉(農薬)が空を舞う時は戸外に出ないよう父から諭されたことなど、幼少期に見た光景や経験は私に大きく影響を与えました。シャボン玉石けんの製品に共感したからこそ、強い信念で勤め続けてきたのだと思います。

-森田

1974年といえば、私が生まれる前です。昭和一桁生まれの父は寡黙で、家庭で仕事の話、特に苦労話は一切しませんでした。しかし、「なぜ、無添加にこだわるのか」、当時の取材記事や父が執筆した書籍、そして1991年に創刊したこの友の会だよりなどを通して父の考え方や想いを共にすることができ、また、繰り返し伝えることの重要性を学びました。
ところで、専務の入社当時は当社の低迷期です。どんな経験を積んできたのですか。

-髙橋

同期入社は私含めて5名、社内5名の10名体制で、入社後1カ月ほどの社内研修後、熊本・鹿児島・宮崎・大分を1週間で営業するからと先輩に同行し「次から一人で担当してね」とものすごいスピード感でした(笑)。そういった状況でしたから、営業とはいえ伝票書きや出荷手配なども行っていたんです。しかもすべて手書きです。

-森田

令和の働き方からすると想像をはるかに超えますね。

-髙橋

入社翌年に会社が〈関西・関東展開計画〉を示し、営業担当として私に白羽の矢が立ちました。今は企業情報をインターネットなどで簡単に知ることができますが、当時は現在のように、どこに何があり、どんなことをしているのかなど企業情報が公開されていません。営業先とつながる唯一の手立てが電話帳でした。大阪、東京に到着するや現地の電話帳で営業先を調べて動く、月曜日から金曜日は関西・関東に出張、金曜日の夜帰福し土曜日出社し次週の準備して、また月曜日から出張……、そんな状況を約2年ぐらい続けました。当時の製品は4アイテムほどでしたが、次第に、取り扱ってみよう、コーナーを設けてみようかというお取引先が現れたんです。ただ、取引条件として現地営業所を求められたのが関西エリアでした。そのことを報告するや「アパートを借りてきた。悪いけど大阪に行ってくれるか」、先代はとにかく動きが早い(笑)。私も即決で承諾し、翌月から大阪に丸6年いました。仕事は大変でしたが、その時期に今でしたが、その時期に今でもお付き合いをいただくお取引先とのつながりが持てたことは貴重な展開だったと思います。

森田隼人

-森田

当時の世の中は、今のように環境問題への意識が高くはなく、無添加石けんはなかなか受け入れてもらえなかったのでしょうね。

-髙橋

環境を売りに営業すると笑われるような時代でした。しかし、無添加石けんを世の中に広めていくんだという強い信念で、石けんと合成洗剤の違いや石けんの優位性を愚直に伝え続けました。信念を貫くことができたのは、ご使用いただいたお客様からの「赤ちゃんのおむつかぶれが治った」「肌荒れがよくなった」など、〈ありがとう〉という生の声、感謝の言葉に支え続けていただいたからこそであり、無添加石けんには将来性があると確信していたんです。

タワー浴用スノール

-森田

私が入社し最初の研修で最もインパクトがあり印象に残っているのが友の会会員の皆様からのお便りの山とその内容でした。安心安全を求める声、環境への配慮を欠かしたくないという想い、文面から熱量が伝わり〈本当にいい製品なんだ〉と実感したんです。私が幼少のころ、会社や製品を知る方は少なく、ちょっと変わった石けんを作っている会社なのかなと思っており、正直気恥ずかしかった。しかし、1986年に粉石けんスノールを製造するスプレータワー(石けんの素を乾燥させ、粉石けんにする乾燥塔)建設の際には足を運びましたし、高校生になると、父の執筆するものを読み、誇らしさを感じるようになりました。高校生の夏休みには製造部門で働かせていただいたのも良い思い出です。

低迷期支えてくれた感謝のお声

-森田

2000年に入社し、最初の配属は製造で釜炊き、そして経理、営業の業務に従事し、営業は5名ほどだったので、東京・大阪・広島・九州を担当し、途中から東京主要担当となりました。専務の入社当時ほどではないとはいえ、月曜日から金曜日は東京へ出張しポケット地図を頼りに営業活動を行うなどしていました。今後を考慮し東京にも活動拠点を構える必要があることを感じましたし、いろいろな現場を経験することができ、職場環境のこと、そしてメーカーは、ユーザーの期待に応える製造力・技術力・品質向上を追究することが命題だと強く思ったものです。

-髙橋

私が大阪から九州への配置転換を命ぜられたのも工場の竣工がきっかけでした。工場建設に伴い社内は増員され30〜40人体制となり、勢いづいていました。ものづくりをする企業にとって、工場は全社員の士気向上につながる、会社の上昇機運を肌で感じたものです。

-森田

工場の象徴的存在は高さ25メートルあるスプレータワー。水に溶けやすい特長を持つ中空粒状の無添加粉石けんなど不可能といわれていたものを開発し実現することができた、それもすべて自前の自社工場でやり遂げることができたのですから、メーカーとしての矜持を皆で再認識する機会になったのだろうと思います。

さらに技術を磨き無添加石けんを広げる

髙橋道夫

-髙橋

90年代には、無添加石けんのよさを伝える手段の一つとして、当時まだめずらしかった工場見学を開始しました。製造のこだわりは現場を見ていただくのが一番ですから。今では年間1万5千人ほどの方が工場に訪れるようになりました。学校の環境教育として、経済団体や自治体の教育研修などバスをチャーターして見学してくださっています。

-森田

工場建設にあたって、先代は60年以上釜炊き一筋だった故・井関と入念に事前リサーチしたといいます。石けん工場は、油脂を扱うので油ハネや特有の匂いがするのが一般的でした。その常識を覆し、見学するお取引先からも「石けん業界で、これだけきれいな工場はない」と言っていただけるのも、先代らが食品レベルの工場にしたいという強い思いがあったからこそでしょう。

読本講演

-髙橋

労働環境に配慮し工場が板張りフロアであることにも驚かれます。2001年には、環境に配慮した石けん系消火剤開発が本格スタートし、その研究過程で無添加液体石けんの開発にも成功しましたね。

-森田

当時すでに、液体への要望は、かなりのユーザーから届いていましたが、先代は、液体石けんにはどうしても防腐剤が必要になるため粉と固形であることにこだわっていたんです。しかし、無添加の液体石けん製造の技術を得ることができた。石けんに対する使い勝手など心理的ハードルが低くなり、結果、無添加石けんユーザーがさらに広がりました。今も石けん系消火剤の研究は続いており、海外での実証実験にもつながっている。合成洗剤系消火剤では水中や土中の微生物はじめ環境への負荷が懸念されるところ、無添加石けん系消火剤なら環境にもやさしい。無添加石けんの新機能開発への社内の士気や意欲はもちろん、社会からの期待は高まり続けているといえるでしょう。

-髙橋

今後も、工場、支える各部門を担う人材の育成や職場環境の向上に努め、お客様の求める、あるいは期待を上回る製品で応えたい。そのためには、社員一人ひとりが会社の事を自分事として捉え技術の研鑽やサービスの向上を追究し、石けんの良さを発信してまいります。

-森田

世界一の技術力で、無添加石けんの価値の深化・創造を追求し続けます。環境問題、生物多様性は日本だけのテーマではない。世界そして地球規模の視点を欠かすことなく、無添加100周年に向けて社員一丸となって前進してまいります。皆様どうぞこれからも忌憚なくお声がけください。

年表